落ち葉を利用することは本当にエコロジカルなのか?
落ち葉を集めるシーズンになりました。
身近な自然環境から自然発生する、極めて利用しやすい天然資源を活かして農業を営もうとする「有機農業」という手法において、広葉樹の落ち葉はとても有益な材料となります。
僕にとってもそれは例外ではありません。
ただ、「自然の恵みだ、本当にありがたいな~」と思う一方で、この「落ち葉を集めて畑に移動」という行為に多少の違和感を覚えることがあります。
それは、いくら身近だからとはいえ「自然界では決してありえないであろう天然資源の局所的大移動」という、極めて人間都合の行為だと思うからです。
とはいえ、そんなことを考えていたら何もできなくなってしまいますから、それを否定的に捉えているわけでもありませんし、自分自身も大して気にしていませんし、どちらかというと好意的に捉えています。
しかし「それが果たして自分の自然感にとって望ましいものなのか?」ということは、僕自身が健やかに生きていこうとする上で、考えるに値する大きなテーマだったりします。
北村透谷が内部生命論の中で、「自然は不変なのに、それに対する人間の心が異なるから、自然はその趣を変える」というようなことを書いていますが、結局は、人間がどう捉えるかという部分に「人にとっての自然」というものの価値観が大きく規定されてしまうというのは今も昔も不変の事実であり、その是非はピンポイントの事象だけを取り上げて議論するべき対象ではないのだろうと思っています。
20世紀前半のアメリカで生まれたウィルダネス(原生自然)の保護という価値観のような文脈で自然を捉えるのであれば、人の手が入っていない自然こそが望ましい自然だと思いますので、人が落ち葉を拾いに行かない方がよいのかもしれませんし、その一方、里山のように、人の手が入ったことにより自然との共生が図られたような自然こそが守るべき自然だと捉えるのであれば、近くの落ち葉を拾って田畑で利用することの方が望ましい自然との向き合い方であったりするでしょう。
僕は南方熊楠の生態学としてのエコロジーの基本概念が示すような自然感に憧れを持っていたりしますので、そのような自然感をベースに成り立てるような現代版の農業の形を理想と考えている所がありますが、農業をすればするほど、そもそも農業は生態系の複雑性を破壊する産業なのだという事実を嫌というほどに目の前に突きつけられますので、その理想がどんどん遠ざかっていく感覚も覚えています。
「自然生態と人間社会(もはや自分かな?)の適切なバランスって一体なんなんだろうな~??」ということを、落ち葉拾いから考えさせられています。
それはそうと、落ち葉キレイだな〜。