概念としての有機農業に居心地の悪さと違和感が膨らむ。①
まだ決めた訳ではないのですが、ここ最近、法人成りを考えています。
色々な側面から総合的に見て、マイナス面よりプラス面の方が多そうなので、そう考えるようになりました。
また、少~しだけ、自分を信じられるようになってきたという理由もあります。
ただ、その一方で、「有機農家としてこれから先も突っ走るのか??」と、考えている自分もいます。
僕は有機農業を始めてからもうすぐ丸11年になりますが、進めば進むほど、概念としての有機農業への疑問が膨らんでいることは否めませんので、そのように思っています。
もちろん、自然の仕組みを上手く活かす道を考えるような有機農業は、仕事として面白いことだらけです。やりがいもありますので、僕の中ではとても価値の高いものです。
また、野菜を作って、人に野菜を届けることも、今の畑仕事も大好きなので、今やっている農業が嫌だという話しではありません。
膨らみ続ける疑問や違和感の正体を物凄く簡単に言うと、学べば学ぶほど、有機農業を信奉しているような人と出会えば出会うほど、「それって本当にいいんだっけ??」と突っ込みたくなることが次々出てくるがゆえに覚えている違和感ということです。
僕は農業という仕事の中でやりたいことがあります。それは「自分なりの角度で自然を尊重することを大切にしながら、美味しい野菜を作る努力をし、食べた人に喜んでもらいたい」という極シンプルなものです。
その結果、社会や環境に対し、少しでも貢献できるのであればそれは嬉しいことですが、それを目的として仕事をしていません。社会価値は、他者やマーケット、時代が判断するものなので、自らがやたらに主張するものでもないと思っています。
また、農業手法が必ずしも有機でなくてもいいと思っていますし、有機農業が全体最適にならなくてもいいと思っています。どちらかというと、今の状態なら、なるべきでもないと思っています。
所が、僕のやっているようなことは、有機農業を農業の全体最適にすることを絶対善と決めつけてしまう人や、前近代的なテクノロジーにユートピアを夢見るような人たちを惹き寄せてしまうことがあります。
その動力に、許容や尊重のようなものが前提とされていれば特に気になることもありませんし、そのような夢やロマンに溢れた行動や議論であれば受け入れることは容易です。
しかし、僕はそういう人の主張の多くに、「対象が不明瞭な不安感情からの極端な思い込みの押し付け」のようなものを感じています。
いつも僕の記事をお読みくださっている方はよくご存知だとは思いますが、僕はそういうものがあまり得意ではありません。
しかし、農業を通じて、そういう人たちや情報と出会う数が、年々多くなってきているのがここ数年少し気になっています。
……
長くなりそうなので、記事を2回に分けます。
ということで、今日はここまでで。
続きはまた後日。
※先週末の強風、なかなかのものでしたが、特に大きな被害もありませんでした。心配していたカリフラワーやブロッコリーも皆元気にしています。