人間の社会は優しく非暴力的になり続けている。
ナチュラリスト、ヴィーガン、自然農法家などなど、僕の周りには、生き物や自然に対する優しさや愛を原動力にしながら、活動的に生きている人たちがそれなりにいます。
そんな皆さんの社会や自然との関わり合い方を見ていると「現代は、色々な意味でとても優しい時代だよな~」と感じることが多いです。
活動者自身の満足の為という訳でもなく、そのような行動や考えが、社会からも善と認められやすい傾向にあることを強く感じるからです。
(他者への押し付けや自己顕示欲が甚だしいものは除いて)
成田悠輔さんの著書「22世紀の民主主義、選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」の中で、「人間の社会は優しく非暴力的になり続けている」というようなことが書かれています。
また、「性別や年齢など、人間を属性で区別せず、人類皆同じと考えようという方向に段々と進んでいて、今後、人間とそれ以外の動物や生命も区別しない方向に向かうことが予測される。」
というような考えも述べられていますが、これに似たような意味でも、肌で「優しい時代」を感じています。
個人的には、人が優しさや愛を持ってあらゆる生命に接しようとすること自体にネガティブなものはないと思っています。
しかし、その一方で、「本当にそうなのか??」などと考えてしまう自分もいます。
なぜならば、愛情や特定の主義は、いきすぎると他者への抑圧を生むことがあるからです。
「あらゆる生命に強い愛情を持ち、人間と人間以外を区別なく振る舞うことを大前提とした人間の社会は、果たしてどのようなものになるのでしょうか??」
気候正義に根ざした過激なエスタブリッシュ批判に見られるように、人間の文化を悪者とした生物至上主義のようなものも沢山出てくるかも……..。
そんなことをついつい想像してしまいます。
少し話は変わりますが、先日「ザ・メニュー」という映画を観ました。
この映画は、グルメ業界への批判を切り口に、食事や食材に対しての人々の向き合い方について、物凄く強いメッセージを投げつけてくる作品です。
食事は、尊い命をいただくという神聖な行為だということを多くの人が認識していると思います。
しかし、実際に自分が食べているものにどれだけの苦労や情熱が注がれているかなどは考えもせずに、当たり前のように食べ物を貪り続ける人の方が圧倒的大多数でしょう。
僕自身も、ちゃんと考えられているかと問われれば、怪しいものです。
そのような人間社会の思い上がりと勘違いに対し、ズバッと切り込みを入れてくるような内容の映画です。
その切れ込みの入れ方が不快材料たっぷりで、おぞましい描写も多いので、観るものを嫌な気持ちにさせるような作りになっています。
死をモチーフにした芸術、メメント・モリとか、ヴァニタスのようなものを思い起こさせるようです。
なぜ突然この映画の話をしたかというと、僕はこの映画に、先述の生物至上主義の行き着く先の一つの事例予測のような側面を感じていて、とても興味深い示唆だと感じています。
生物への飽くなき愛情や優しさが、歪な形に変容し、時に人と人が傷つけ合ってしまうこともあるのだろう……。と考えさせられたということです。
長くなりましたが、今日の話を一言でまとめると、「愛情や優しさも多種多様なので、矛盾も多いし、色々簡単じゃないよね。」というお話でした。
※四角豆の季節がもう間もなくやってきます。
まだまだ暑いですが、野菜の季節は秋に突入です~。